バイトをやっているとき上司の目が気にならないだろうか?

 労働者への監視

 

 新入生のみなさん! 君がバイトを始めたとしよう。

 職場では、時間帯によっては、上司がいなくて、バイトの学生とパートの労働者だけで仕事をやっていることがある。それでも手を抜くことなく、一生懸命働いている。和気あいあいとやっているときはいいのだけれども、時間に追われてくると、上司はいないのだが上司に見張られているような気になってくる。

 老人ホームでの盛り付け・皿洗いの私の仕事の夜の時間帯は、パート労働者二人だけだ。それでも猛烈な勢いで働いた。洗うべき食器と洗浄機という物に、私たち人間が支配され命令されているのだ。

 この職場で働きはじめてはじめのころだったが、こんなことがあった。

 午後4時前に職場に行くと、職場の責任者の調理師の人の怒鳴り声が飛んできた。

 「どんぶりが汚かったぞ。早番のおばちゃんが怒ってたぞ。見てみろ」

 見ると、テーブルの上にどんぶり鉢が一つぽつんとこれ見よがしに置かれてあった。よく見ると、どんぶりの底にお粥が少しこびりついていた。これは、昨夜の私の仕事のせいだ。

 このどんぶり鉢を一日中さらしものにしておくなんて、そこまでしなくても、と思うのだが、立場を変えて考えると、おばちゃんの気持ちもよくわかる。おばちゃんは嫌がらせをしたわけではない。

 私が早番をやったときに、お粥を盛りつけようとしたどんぶり鉢にお粥の残りがこびりついていたら大変なことなのだ。もしも気づかずに盛り付けて出したら、介護士の報告をうけた施設長が「なんていうことをするんだ!」と厨房に怒鳴りこんでくることになる。入所者の家族に知れたら大変なことになるのだ。昨夜の遅番の人に直接注意しようにも、早番と遅番とでは会うことがない。両方のシフトをやるのは私ぐらいのものだ。お粥のこびりついたどんぶり鉢を置いておく以外にない。

 この職場では、お粥のこびりついたどんぶり鉢という〝物〟が威張っているのだ。この物が「もっとよく洗え」と人間に命令しているのだ。この職場の責任者である調理師の男は、昔の軍隊で二等兵をぶんなぐった上官のように威張りちらし・いじめをやる人であり、マルクスが『資本論』で「産業下士官」と呼んだこの名称にふさわしい人物なのだが、よく考えて見れば、この人の性根が悪いのではなく、この人は、お粥のこびりついたどんぶり鉢という〝物〟の人格的表現にすぎないのだ。この人自身、お粥の残りかすのこびりついたどんぶり鉢にお粥を盛り付けて出したら大変なことになる、という自己保身に駆られているのだ。お粥のこびりついたどんぶり鉢という物が、この人に命令しているのであり、この人はこの命令に従って行動しているのだ。

 お粥のこびりついたどんぶり鉢という物が、資本のとっている物質的な姿なのであり、どんぶり鉢は、食事を入所者に提供するというサービス商品をサービス商品たらしめる物質的諸条件として、老人ホーム施設経営体の所有物なのである。介護士たちと給食労働者たちとがいっしょになって老人たちの生活の世話をしている、というようにみえるけれども、これは外観なのであって、実は、これらすべては資本の自己運動の姿態なのである。

 君たちもバイトで労働すると、『資本論』の中身を自分自身の体でひしひしと体感するのである。